2011年6月23日木曜日

なぜ受け取れないのか

6月21日(火)の二口クラスの様子を書きます。二口クラスの内容は以下の通りです。

他人と瞬時に反応し合える能力を獲得するためのエクササイズ<前期>
お芝居は台詞を覚えて、段取りを覚えて、それらをなぞるだけでは成立しません。段取りはあるものの、相手役や観客と呼応することで、活きた舞台はつくられていきます。こ役者さんの創造性はそうした瞬時のやり取りの中から生まれます。この講座ではそうした能力を獲得する為の訓練を行うと同時に、訓練法を学びます。今期はその前編として、基本的な練習を中心に行います。

毎回二口クラスの最初にバレーボールのラリーで100回繋ぐことを目指していたのですが、今日遂に178回出来ました。何かが舞い降りてきたかのように、突然100回以上出来たのです。単なる奇跡的なことでしょうか、これは。

バレーボールのラリーをしていると、声を出す人と出さない人に分かれます。特に自分の近くにボールが来た場合「はい、はい、はい」と声を出して、自分がボールを取りますよ、という意思表示をすることは非常に重要です。声を出さないまでも、軽く手をあげて、意思表示をすることもできます。意思表示が明確であればあるほど、ボールを拾う行為がぶれません。5人でラリーを行うとして、5人合わせて1人の人間であるかのように、手があり、足があり、頭があるように、それぞれに役割分担をして、5人で1人の空気感が出来上がっていきます。

ラリーの後は、ジェスチャーしりとりを行いました。ジェスチャーしりとりをしていて思うのは、短い時間(10秒~20秒)の間で何かを表象しようとする行為者を見ていて、それでもいったいそれが何を示しているかわからない時の、思考の流れの面白さです。次につなげなければならないため、いったいそのジェスチャーが何を表しているかわからない時に、イメージの取捨が起こります。思考を続けて、粘って粘って結局何もわからないようでは次につながりません。イメージを曲解するというか、どこかで区切りをつけて「あれはきっと犬を表象しているに違いない」と心の内側で思い込もうとしている自分を発見することが出来ます。イメージの取捨選択を瞬時に行わなければ、敏捷に他者とコンタクト出来ない、ということに自然と気づくのです。

ジェスチャーしりとりの後は、二人ペアーになって、相手の発する言葉(具体でも抽象でも)を身体で表すゲームをしました。たとえば、相手に「ゴキブリ」と言われれば、行為者は「ゴキブリ」を表象しようとします。この時に、「ゴキブリ」をどうやって対象化するのか、の問題が出てきます。人によっては、ゴキブリになる人もいますし、人によっては、ゴキブリを殺そうとする人を演る人もいます。人によって傾向があって、人間としての自分を主格にしてやりがちな人と、自由な発想で表象することを楽しむ人とがいます。自分という主格が崩れない人は、往々にして抽象的な言葉を表象できません。「赤色」と言われて、自分主格を保持しようとする人は、戸惑うばかりです。舞台上で俳優は何にでもなれます。というのは信じても良い嘘でしょうか。答えはわかりませんが、一度そのように信じてみることが、身体の可能性が開かれて、思いもしない動きを自分がし始めることを楽しむことは、誰にでもできると思います。また、イメージを多角的にもてること、イメージが軽々と飛翔していくことが出来るというのは、俳優として非常に重要なことだと私は考えます。主格が崩そうとしない傾向がある人は、是非一度崩してみようとすることをお勧めしたいと思いました。と同時に、主格を崩すことに必死でいると、どこか躓きがあることも確かです。ワークショップの講師の方々は、しばしば「面白いことをしようとしなくても良い」といいます。しかし受講者の人は、「といっても、普通なことばっかりやっていたら、つまんないじゃん」と思っていることもあるでしょう。ここで重要なことは、講師の意図をしっかりと掴むことです。ワークショップは、可能性のレンジを広げようとする場所です。そうすると、自分の持っている思考の枠、身体性の枠を超えていく必要があります。その時に、枠を超えることを考えるのは良いことですが、大事なのは、じっくり考えるということだと思います。もちろん突発的に枠をぶち壊そうとする衝動も大事だとは思います。しかし、良くないと私が思うのは、枠をこのように壊せばきっと面白い、という、一種の軽率なパフォーマティブな思考に陥ることです。何かをする=何かを提供する=魅力的なことを何かする、というのは、私は軽率な考え方だと思います。提供するだけのものをまず俳優は、舞台上で受け取るべきです。受け身から始まることを念頭に置いて、身体の声に耳を澄ましながら、自然に枠を壊そうとすれば良いのだと思います。当たり前の話ですが、この世に一人として同じ人間はいません。ですから、身体の声に耳を澄ますといっても、その声は皆バラバラです。自分の体の癖、思考の癖といったものに、気づくことも、他者と瞬時にコンタクトするうえで、非常に重要なことです。

少し長くなってしまいました。その他にやったことは、椅子を三つ並べて、二人の俳優がそこで出会ったときに、何が起こるのか。というゲームです。ゲームのプレイヤーであることを過剰に意識すると、つまり枠を壊すことに躍起になると、逆に枠に捉えられているのかもしれません。プレイヤー=行為者であることを半分忘れて、不可思議な自分と戯れるように、舞台でいろいろなことを発見して頂ければと思います。